2018年5月 【第四話】戦争での負傷治療に有利な解剖医学の発展と、その後の西洋医学

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■第四話:戦争での負傷治療に有利な解剖医学の発展と、その後の西洋医学■

コス派やクニドス派が競い合っていたギリシャ医学は、その後、アレクサンドロス大王の遠征によりギリシャから都市アレキサンドリアにその中心が移ります。

アレクサンドロス大王は、自然学のなかで多くの解剖を行っていたアリストテレスの教えを受けおり、アテナイ(アテネ)・テーバイ軍との戦いなど多くの戦争を遂行する上でも、負傷兵の外科的治療の必要性を感じたのではないかと思います。その後、東方遠征の中でエジプトを征服し建設された都市アレキサンドリアが、衰退したアテネに代わり学問の中心となると、医学でも外科治療などに必要な多くの人体の解剖が盛んに行われ、解剖学の基礎が構築されるようになります。

そして、紀元頃に古代ローマ帝国が現れると医学の中心もローマに移り、ヒポクラテスと並び西洋の古代医学の二大巨像とされるガレノスが西暦130年~200年頃あらわれます。

クニドス派医学と相性の良い解剖学に基礎をおいた、実験生理学の創始者とも言えるガレノスは、コス派も含む古代ギリシャを中心とした様々な有用と思われる医学学派をまとめ上げ、独自の考えを構築し当時の医学の権威者となりますが、これが時の権力の中心となった宗教思想と結びついてしまいます。そのため西洋医学はその後約1500年近くも停滞してしまいます。

一方、ガレノスと同時期の東洋では、コス派と同じく自然治癒力を重視し、自然界の観察により成立した「黄帝内経」の思想を受け継いだ漢方の「傷寒論」が張仲景により紀元200年頃に書かれ、漢方の聖典となります。その後、宋の時代には解剖が多く行われましたが、あくまで人体は自然界の一部と捉え、科学的なメカニズムの塊りと考えず、また自然治癒力を大切にする観点からも各臓器や部分が重視されなかったこともあり、観念的ながらも漢方医学は権力に影響を受けずに発展して行きます。

では、どのようにして西洋医学は中世の長い停滞から脱して、現代医学の主流となったのでしょうか。